週報タルトトタン

よく寝て、よく食べ、日曜ものかき。

#021 竹馬の友にミキサーを買う


 つい先日、友人がめでたく誕生日を迎えたため、プレゼントとしてちょっとしたミキサーを贈った。5000円もしない、本当にちょっとしたやつだ。パッと明るいオレンジ色で、彼女の部屋には割と馴染むんじゃないかと思う。

 といってもいきなり送り付けたんじゃない。“心ばかりの”ミキサーとはいえ家電であるし、かさばるし、万が一ニーズに合ってなかったなんて日には祝い事が一転して悲劇だ。戸棚の奥の貴重なスペースを不法占拠する輩と化してしまう。
 だからあらかじめ何が欲しいか聞いておいた。その答えがミキサー。なるほど彼女は料理に慣れているし、日々の食事など生活の一つ一つを大切にするひとであるから、ワンランク上の調理器具に興味があっても不思議ではない。さらにリサーチは念を入れて、「これを直接アマゾンから送るがいいか」と商品ページを提示した。サプライズも何もあったものではない。しかし、重ねて言うが使わない家電が届くことほど頭を抱えるものはない。仕損じたらおそらく人間関係にシコリが残る。
 その二重リサーチをクリアした品が、例のオレンジ色のミキサーというわけだ。

 

 

 今まではプレゼントといえば必ず直接会って渡していた。彼女とは小学生の頃に知り合って、社会に出て別の県に住むようになっても、帰省したタイミングやらで手渡すようにしていた。思えば長い付き合いだ。
 振り返れば必ずしも誕生日の当日に渡してはいなかった。夏に生まれた私が冬場に受け取ったこともある。今年私から彼女に送ったミキサーはなんなら昨年の分を含めた二カ年の贈り物だ。付き合い自体をいい加減にしていたという訳ではないが(いや、いい加減にしていた時期もあったかもしれない、正直なところ)その辺の処理はわりとお互いにルーズにしていたと思う。そういう点も肩肘張らずにいられて私としてはありがたかった。むしろ記念日に対して人一倍ガサツな私でも許してくれる彼女だからこそ交流が続いているのかもしれない。どっちにしろ、やっぱりありがたい。

 

 で、今年の贈り物はアマゾン直送で届けた。
 住まいが離れたなら早いうちからそうしてしまえばよかったじゃないか、と今にして首を傾げる。これまで頑なにアマゾンを使わなかったのは、通販には「指先だけで済ませてしまう」感覚があるためだ。足を使って店で買ってきたものを面と向かって渡す過程にある労力がごっそり消えてしまっている。誰かを祝うなら物理的に労力を使いたいし、受取人の顔を目視したいというアナログな願望があったのだ。別にアマゾンに真心が籠ってないなんて言うつもりはない。趣味でよく使うし。けれど普段食べているファーストフードを祝いの席に持ち込みたいかといったら答えはやっぱり「ちょっとどうかな」なのだ。

 

 そんな風に敬遠していた手段まで使おうと重い腰を上げたきっかけといえば、我々以外の人間も悩まされているアイツ、あの流行り病だ。
 とにかく会えない。帰って来られない、遊びに行けない。これには弱った。2021年1月下旬現在で、到底お互いに顔を見せられる状況ではなくなってしまった。見通しすら立たない。私としては去年分のお祝いも(申し訳ないことに)滞納しているというのに、いつプレゼントを渡せるか分かったものではない。つまり、もう手段を選んでいられる立場ではなかったという訳だ。

 それに、常日頃「こちらに帰りたい」「自然を見たい」「人に会いたい」とこぼしている彼女に対して、間接的にでも何かしらの物理的アプローチができたらいいと考えた。ビリヤード的な発想だ。球にされるアマゾンの配送員さんからすればたまったものじゃない。申し訳ない、本当に助かった。

 こんな風にいうと未だ先行きの見えない混乱の渦中に身を置く方には申し訳が立たないのであまり大きな声では言えないのだけれど、この一年ほどで私の交友関係は不思議と結束が強くなったように感じている。
 ちょっと聞く限りでは似たような具合で「人付き合いが減った」とか「人間関係が絞られた」とか言われているようで、それが私の場合は今ある付き合いの強化・深化という形にあらわれたのかもしれない。この世相の影響で減っていくような浅く広くの領域にある関係性が既になかった、というのは大いにある。そもそも厳選されていたために(私に付き合ってくれる心温かい人たちを“厳選されたる人”とは呼びたくないけれど、便宜上ね)……あとは深まるばかりだったと。
 会うことは減ったけれど、メッセージをやり取りする頻度は目に見えて上がった。
 人間、危機に瀕すると自然と身を寄せ合うものなのかもしれない。
 私としても、それはとても嬉しいことだったし、何より心強かった。

 そんな背景もあって、いわばリモート・バースデーに抵抗が無くなっていたのかもしれない。

 

 初めてのアマゾン直送バースデーは、意外とわるくなかった。
 彼女が確実に家にいる時間帯を指定したのに、インターホンも鳴らさず箱を設置して完了したのは衝撃だった(なんと置き配は実在した!)。もしかしたらこれも世相の影響なのだろうか。何にしろ配達員さんが楽で安全な方法がいいに決まっている。
 結果として「誕生日おめでとう」のメッセージを送ってしばらくやり取りしたあと、おや、これは彼女まだ荷物に気付いてないな……? と思い至り、「ちょっと玄関確認してみて」などと海外ドラマのサプライズじみた文言を送ることになった。
 友人曰く、「サンタかよ」とのこと。
 結構喜んでもらえたみたいで、よかった。

 お祝いをしてこちらの方も嬉しいと思える友人は貴重だ。

 

 ちなみに、この友人というのは当ブログで何度か登場している「竹馬の友」その人だ(参考記事:#017#019)。今後は固有名詞を記述すべき場面が出てきたら仮に「竹馬」と呼称することにする。

 相手のためになにかすれば嬉しくなる。知らなかったことに気付かせてくれる。つるんでいて楽しい以上に、余計なエネルギーを使わないでいられる。
 竹馬はそういう類の、得難い友人である。


 どこかで出会った行きずりのネットの知人が「友達がいなくなったら、また新しく作ればいいじゃん」と言っていた。それも真理だと思う。トモダチなんてそうそう仲が続くもんじゃない。近所の幼馴染、学校の同級生、職場の顔見知り、ネットの知り合い、数多の他人の中で友人と呼べる関係になれる人自体がそもそも多くない。長続きするなんて、使い古された表現を躊躇いなく当てはめるなら、それこそ砂漠の中のダイアモンドである。だから増えては減って増えては減ってのサイクルに身を置けばよろしいということだ。

 しかし私はそういうコマーシャルな人間関係があまり得意ではない。なので「友人」がそもそも稀であり、限られてくる。
 それを自覚しているからこそ、今ある関係は出来うる限り大切にしてゆきたいと、最近とみに思う。

 

 彼女にはこのブログの所在を伝えていない。というか知人には一切教えていない。ちょっと照れくさいから。
 しかしいつの日かその考えが変わって、万が一彼女がこのブログに辿り着いて(あるいは私自身が招き入れて)この記事をここまで読んだなら、まあ……笑ってやってください。

 よくもまあこんな恥ずかしいことを書けたもんだ。

 

 

 竹馬も与り知らぬところで竹馬の誕生日についてあれこれ考えて、記録に残したところで今日はここまで。
 また次の日曜に。