週報タルトトタン

よく寝て、よく食べ、日曜ものかき。

#059 もう全部破り捨てたい


 定期的に、だいたい短くて半年、長くて二年くらいの周期で、その時まで積み上げてきたものをすべてブチ壊してブン投げて、関わり合いになった一切と縁を切ってしまいたくなる時がある。
 今日はその話。

 オチもない、解決策もない、結論もない。ボリュームも教訓もない。
 そのくせ時折書かざるを得なくなる、そういう類の記事だ。
 あまり愉快でも興味深くもない内容だろうから、全然違うリンク(おおよそゲームタイトルからだろう)から転がり込んできたのであれば別段本記事を読む必要はない。


 以下、非常に私的な精神の捻転。

 

 

 よくあるじゃん、個人的な悩みから得た人生における気付きと、それに対処するための身近な解決策をセットで梱包した処方箋のようなブログとかnoteとか。もっと短いのであればTwitterにも無数に転がっている。
 この記事はそういう優雅なもんじゃない。残念ながら。
 堂々と「この毒の由来はこういう傷だと分かった」とか「このように過ごして/考えて乗り切った」「ゆえにこのような成果を得られた」と他人様にお見せできるような状態じゃない。あれは、得た知見や解決策がもっともらしいと自信を持っている人にしかできないことだ。

 

 現状の私にはそれができそうにない。
 もう今まで築き上げてきたものすべてに自信を持てない。
 内容はともかく一年間も毎週きちんと更新してきたこのブログだって、一件残らず記事を削除して、サイトごと閉鎖したくなる瞬間がある。
 Twitterアカウントを消したっていい。
 ロクに使っていないYouTubeのチャンネルもさっさと潰した方がいいかもしれない。
 とある場所で書いてたものも、読み返すと今一つ価値を感じられなくて非公開にしてしまいたくなる。
 それらに縋るようにして成立させていたアイデンティティが水を吸ったクッキーよろしくモロモロと崩れてゆく日々。

 ありがたいことに成果物を褒めていただく機会があっても、本当に申し訳ないことに全く素直に受け取れない。
 これはコミュニケーションとしても宜しくないと思う。が、「フォローとしての言葉なら要らない」と何故かかたくなになってしまって上手く呑み込めず、仮に真実であっても「私はそんなに価値のある人間ではない」とありもしないプレッシャーに押しつぶされそうになる。

 相当な追い込まれ具合である。

 

 そういう拗れに拗れた状態まで陥ると、積み上げた成果も、ささやかながら築かれたコミュニティも、やろうと思っていた展望も、全部切り捨てて逃げてしまう。
 実際、過去に何度かそういう不誠実な行為に走ったことがある。

 だから、私の手元には「良かった」と肯定できる過去はあまり残っていない。
 過去のことは悔やんでばかりだ。
 子供時代、学生時代、若手時代、どれもこれも思い出す度に声を上げかける。やめてくれ、と思う。どうか誰一人覚えていてくれるな、と祈るしかできない。
 そんなド素人の生き方を晒しているから、人生にたまったキャッシュを定期的に削除するごとく、「重くなった」ものを清算する癖をやめられない。
 結果、私は過去を肯定することにも、現在を積み上げることにも習熟できないまま未熟な本日を迎えている。

 

 自己肯定とは何か。過去を認めることか。現状の有様を受け入れることか。
 それは傲慢や停滞ではないのか? 思考停止ではないのか? なぜそんなに臆面もなく己を認められる?
 「自己肯定できた」と認識したとたん、私は「恥ずべき自己からの脱却」をできなくなるのではないかと恐れている。

 

 不断の努力の末、自己肯定の境地に至りつつある人がいる。私の大切な人だ。
 自己の在りようを自分自身の手で受け入れられた人間、その姿を見て、私は嫉妬を覚えてしまった。
 いつだって尊敬している、本当に大事な人なのに。

 あの人は努力をしている。苦しんだ分だけ正当に自己を獲得したのだ。
 なのに私はなぜその尊い努力を否定するような心情に至ったのか? それは私が絶対に否定したくなかったもの、最も尊重したかったものだ。
 他でもない自分から湧き出した浅はかな考え、それ自体に慄いて、ここ暫くずっと悔やんでいる。

 

 では、苦しんだ分だけ私は何を得たのか。
 方向性のない苦しみに成果も何もない。

 極めて小さな「向き合わなかったこと」が積み重なって、視野は日々暗くなってゆく。
 今となってはじっとりと悩みに絡めとられたように、自尊心をじわじわと削り取られながら、身動きもできずに一分一秒を過ごしている。そんな感覚。

 

 人に問いたい。人生とは苦ではないのか?
 私はずっと、いつも何かしらの苦味を感じていないと生きている実感がない。
 苦楽の"楽"を生きている人の頭の中はいったいどうなっているんだ?
 広い対人関係を持たない私だが、その中でだって理解できないことばかりだ。
 何もかもに苛立つ己の浅はかさにまた言い様のない怒りが募る。

 

 こんな風にどんなに嘆いても喚いても、自分由来の詮無い苦悩に身悶えしても、生き物である以上は今日明日を実践的に乗り切らなければならない。

 それには、どんなに高尚なツラをしようが「食う」「寝る」「稼ぐ」をこなすしかない。これを昨日よりはマシに行えるように這いつくばってゆくだけだ。

 そして、あとは努力を続けるほかない。
 私にとっての努力とは「遊ぶ」「学ぶ」である。
 ロクにできてないのに何を賢しらに、と憤る己がいる。その通りだと思う。それらを蔑ろにしかけていたからこその今の精神状態だ。
 蔑ろにしても生きてゆけるのだ。恐ろしいことに。
 だからこそリソースを割くのに努力が必要なのだ。

 

 向き合わなかったこととは何か。
 すぐに具体案を挙げられたり、全貌を理解できたりすれば苦労はない。おそらく根深い問題だ。
 とりあえずは「食う」「寝る」「稼ぐ」を少しでもマシにして余計な淀みをアタマに発生させないようにしながら、目についたものから片付けるしかない。

 手っ取り早くやれそうなのは「積読の消化」くらいだ。
 結局こういう卑近な手段しか始める以外の対処法を私は知らない。
 右も左も分からないのは変わらずとも、どこかしらを目指して動き続けていれば現状維持よりはずっとマシと信じるしかない。
 高尚そうな言葉を並べて「人生とは何か」などと騒いでみても、実際のところ私はその辺でじたばたしている。
 悔しい、卑小な己が情けない。

 

 

 というように、冒頭に述べたとおり「ここから始めたことで光明が差してきました!」という愉快で実りある記事ではない。
 ただただ「苦しい」「何も分からない」「恥じ入るばかりだ」とのたくるだけの話だ。
 精神は今も絶賛・泥濘のど真ん中にある。

 ただ腹の底に泥を抱え続けるのはあまりにもしんどいので、こうして(吐き出しても誰にも文句を言われない自分の城で)見苦しくも形にした限りだ。

 

 とまあここまで大仰に書いたけれど、寝不足とか運動不足とかが解消されることで多少なりとも改善される可能性だってある。

 自己嫌悪に苛まれようが、嫉妬に戸惑おうが、消えてしまいたくなろうが、とりあえず温かくして寝るのだけは忘れずにな! というのは唯一の教訓だろう。

 

 結論もないまま、今夜はここまで。
 引き続きジタバタし続けます。
 また次の日曜に。