週報タルトトタン

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#098 メタバース、人格のフィクションとノンフィクション


 メタバース、取り沙汰されてますね。テレビでもかなり踏み込んだ話題が出るようになってきました。
 まだまだアングラな話だと思っていましたが、地上波であの世界が紹介されるとは、時代の流れは早いものです。

 私が毎晩のように《とあるVRプラットフォーム》で遊んでいたのはもう3年も前、2019年前後のこと。
 証拠という程のものでもないですが、こちらがSteamの累積プレイ時間です。

 

 

 ウーン、意外とやってたな。
 100時間だったか1000時間だったかを越えてからがチュートリアルと誰かが仰っていたような気がするので、この程度であれば一般ユーザの範囲内でしょう。

 ちなみに3年前にプレイしたきり、あれからもうほとんど触ってません。当時から色々変わったんだろうな。
 ので、これから書く話はあくまで「その当時、あの場所にいた人間の思い出話」であって、現在のVR事情・メタバース情勢を切り取った最新の情報ではないということ、あらかじめご了承ください。
 更に言うと、既にVR機器自体を手放しているので、最新の事情を改めて取材できる手段もないのです。

 

 今日は、かつてVRの世界に入り浸っていた人間が「なぜVRに戻らないのか」の話です。
 お断りしておきたいのは、これは決してVR機器全般、特定のプラットフォーム、実在するコミュニティや人物に対するネガティブな意見(某界隈で言うところの“お気持ち表明”)ではないということ。

 あくまで、現行のメタバースの世界に馴染みきれなかった人間視点からの「どうして戻らないんだろうなぁ」という自己分析の記事となります。
 似たような人がいたら同族がいることに安心してほしいな、という意図で書いています。どれほどこの辺境にたどり着ける人がいるか分からないけど。

 以下本文。

 

 

 で、VRプラットフォームとは先ほどの画像の通りVRChatです。まあ有名どころで人口が多くて一定の拡張性もある(=遊べる)のはあそこくらいしかありませんでしたしね。今もそうなのかな。
 ソロ向けVRゲーム云々についてはまた論点が変わってくるので別の記事に託します。今回はあくまで『VR世界でのコミュニケーションの魅力と限界について』。

 VRChatの最も面白い点であり、メタバースの最大の特徴とも言うべき点は、自分の見た目を好きなように定義できること。
 知覚の大部分を視覚に頼る人間にとっては、これは一種の大革命ですね。
 人間、見た目が変わるだけで印象の9割くらいは変わってしまう訳で。

 現実の性別に縛られず美少女になってもいいし(それがギョーカイのスタンダードであるという事実よ)、ちっちゃいケモノになってもいいし、ロボ化してもいいし、得体の知れない抽象的な置物になってもいい。
 あの世界では桁違いなレベルの外見の自由が保障されている。それが、最初に一番衝撃を受けた点であり、今でもスゴイと思っている点でもあります。

 

 ただ、視点を変えれば、現実での外見を手放すということは、「外からの印象」や「自分自身に対する内向きな印象」がガラリと一変し、自分が現実で体得してきた「実際の外見に則した振る舞い」が多かれ少なかれ通用しなくなるかもしれない……ということでもあります。

 「美少女アバターを使う時は美少女として振る舞ってしまえばいいじゃん」という考え方もあると思います。私もメタバースの中ではそれが最適解かと思います。
 が、それは「メタバースで“現実から地続きの自分”として在ろうとすることは、現状難しい」こととイコールであるように思えてならないのです。

 端的に言ってしまうと、私は美少女になろうと、無機物になろうと、ジョ◯マンになろうと、「目の前の相手に対して“自分”を偽っている感」が拭えなかったのです。
 コミュニケーションを重ねていくと分かってしまうんですよ。自分自身の実際の在り方と、相手が抱いている自分の印象の間に、現実では起きないような乖離が生じてきているなと。

 そもそも現実での視覚・聴覚(時に触覚)を介したコミュニケーションでさえ100%は有り得ないのに今更何を言ってんだという話ですが、実際にあの世界に入ってみると想像以上に難しくて途方に暮れちゃうんですよ。
 別に聴覚だけでもコミュニケーションツールとして成立する訳で(SkypeやDiscordね)、現実に近い身振り手振りまで再現できる上位互換・メタバースで泣き言を言ってどうするんじゃいとは自分でも思います。
 が、なんというか、現実に近付いたからこそ、現実と同等のものを期待してしまって、実際はまだ程遠いことに愕然としてしまうんです。
 見た目の違いとか、会話のラグとか、物理的(座標的?)な距離の取り方とか、そんな些細なことにつまづいてしまって。

 

 ちょっと話が逸れましたね。内外の印象の話に戻しましょう。
 ここまで、アバターその他の要素によって「メタバースに存在する自分」が「実際の自分、伝えたい自分」から乖離して一人歩きしてしまうことについて話してきました。

 この話は、アバターに即した「フィクションの自分」を演じたい人と、現実と地続きの「ノンフィクションの自分」で在りたい人が、同じプラットフォームに存在していることで更にややこしくなります。
 (まあガチで演じたい人たちはそういう専用コミュニティを組んで住み分けているようですが)

 線引きが為されない、常識がまだ形成されていない、現実から見るとある種の無法状態だったメタバース
 非日常の体験としての面白さは確かにそこにありましたが、一方で「楽しみ方が個々人によってあまりに違いすぎる」という危うさもあったように思います。その当時の所感ですけども。

 私は、アバターから一人歩きした自分に対する印象と、実際の自分に対する自己評価が乖離してしまって(要は「私はそんなにkawaiiでもないし、いい人でもない」と思い悩んでしまったというアレ)、現実とメタバースの両立の難しさに色々と思い悩み、結局離れてしまったんですよね。
 要は「メタバースの自分」を割り切って演じることができなかった。そこに現実での自己評価の低さが掛け合わさって、ワーッとなってしまったと。

 現在、多少は自己評価をリカバリできてはいますが、それでもあの世界を渡り歩くには色々な能力が足りていない気がして……。
 そんな訳で、3年前にどっぷりハマっていたものの、スッパリ辞めてしまったという感じです。思い出話ここまで。

 (まあこの辺は、そもそもネットでのコミュニケーション自体が下手であるという自身の問題も絡んでくる訳ですが)
 (そのせいでTwitterを本来の形で使えないぜ! って話はこのブログの最初の記事、#001にしたためています)

 

 そもそも視覚的に「自分とは違う自分」になることが人間心理にどう影響するかは未知数な部分もかなり多いと思うのです。
 男性がkawaiiアバターを使い続けた影響か、リアルでも女装を始めたり。
 VRでギロチンを試した人が現実で一時的に動けなくなってしまうなんて事件もありましたね。
 ワールドに置かれたミラーの前で駄弁るだけでも、自己認識に相当な影響を与えそうですけど、その辺どうなんでしょう。

 人間はどこまで「自分とは違う自分のいる世界」と「今まで通りの世界」を両立して生きていけるんでしょうね。
 あるいは、それらの境界線はどんどん曖昧になってゆくのでしょうか。

 今もあのプラットフォームが盛況ということは、VR適性のある人が多く存在するからなのでしょう。
 が、うまいこと両立できない・適性の人間も確かに居ました。少なくともここに一人。

 

 それはさておき、最近は現META・旧Facebookメタバースに乗り気のようですね。私、案外アレに期待しているフシがあります。
 見た目のバタくささは改善の余地アリですが、マンガ的カワイイに寄せずに「リアルに近い自分」として自己表現できるプラットフォームが現れるといいですよね。

 や、みんなジョイ◯ンになーれって主張したい訳じゃないですよ。
 もっと違う文化色を持ったメタバース・プラットフォームが現れたら楽しいなってだけです。
 新たな現実としての、ではなく、現実の延長としてのメタバース

 あとはもっとVR機器がコンパクトになってくれれば普及するんだろうけどなァ。

 

 

 そんな感じで、今日はただの思い出話でした。
 将来的にまたあの世界に戻るのか、新天地を探すのか、メタバースには手を出さないのか。現時点では未定です。
 が、少なくともコミュニケーション自体にもう少し習熟してからかな……とは思っています。
 もう私もいい大人ですが、まだまだその辺は未熟なもので。ああ日々是勉強。

 それでは、また次の日曜に。