週報タルトトタン

よく寝て、よく食べ、日曜ものかき。

#034 毒よ真なれ


 己に合わないものを遠ざけるのに、あるいは嫌うものに嫌悪を表明するのに、窮屈な時代になったものだ。
 今日は「全肯定マン」になれなかった生半可な人間の遠吠えと自己正当化の話です。
 そんなに愉快な記事でもないので早めに畳んでおきます。以下、散文。

 

 

 近くに在りたくない、目に入ってほしくないものでも平気で自我のプライベートな領域まで無遠慮に入り込んでくる。努力をすれば遠ざけ、シャットアウトすることも出来なくはないが、そんな拒絶をすればどこからか「エコー・チェンバー」だの「都合のいいものしか取り入れないと人生は貧しくなる」だの生き様そのものに対して注文がつく。
 嫌悪を表明することについては表裏一体だ。愛するものに対する誰かの罵倒なんざ誰だって見たくもない。だから「ひとが嫌がることはしちゃだめだよ」の大原則に則って、自分も黙っていなければならない。

 嫌いなものにわざわざ関わりにいく、触りに行く、この行為そのものが非生産的である。
 そんなことは分かっている。私だって四六時中なにかに「コレは嫌いだ」「アレは理解できない」と指差し指差し文句を付け続ける日々なんて望んじゃいない。なんなら好きなもののことだけ考えていたい。
 が、一方で何かを拒絶する感性まで殺してしまいたいだなんてことも考えてはいない。
 何故なら、好意・興味・憧憬が私の人格を形成するのと同様に、悪意・無関心・嫌悪もまた私の切り捨てがたい一部分だから。

 

 アンチな感情をネットのど真ん中でまき散らさせろとか、気に食わないことが起きたら公衆の面前だろうが勤務中だろうが暴れさせろとか、そういう無茶苦茶なことを主張したいのではなく。
 私には、なんとなく世相が「正の感情こそ受け入れられるべきで、情報社会は一点の曇りなく善意で満たされていなければならない」とでも言うような、いわば負の感情に対する潔癖に走っているように見えてならず、結果としてその圧が(平穏を望んでいるにも関わらず)目に見えぬ息苦しさを生んでいるように感じられる。

 何かを褒めたから、同じくらい貶しておかないとバランスが取れないね! などの「総量」の話ではない。
 罵倒だろうが何だろうが、発表されたならば皆で受け入れよう! などの「取扱」の話でもない。
 ただただ、人間であれば生理現象同然に湧いてくる負の感情自体に罪悪感を覚える羽目になってやしないか? というのが、目下の心配事であり、一種の個人的な恐怖なのだ。

 

 私は人間であれば例外なく正の感情と負の感情の両方を抱えているものだと信じている。
 負の感情100%で人格が構成される人間はいない、逆も然り。比率に差こそあれ。
 正の感情に満たされて、正しい・楽しい・生産的なことだけを行えるなら素晴らしい。そんな幸福を一心に目指してもよい。理想はいくらでも描いてよい。
 が、それはあくまで理想である。絵空事であり、虚像である。
 さらに言えば、それを理想としない人間だって存在する。
 己が幸福と信じるものを、ある者は重視しない。これは価値観の差異としては最も手ごわい部類だと思う。一番、主観的・感覚的に飲み込みづらいものだ。

 が、しばらく「好きなものを褒めちぎろう」「できる限り善いものに触れるようにしよう」と努めてきて分かったことは、私はどうやらそういう正の感情信奉というか、全肯定というか……そこを理想とする人間でないらしいということだった。
 もちろん良いと思うものは沢山ある。良いものに沢山出会ってゆきたいと願っている。それと同時に、避けられない嫌なものとの邂逅も、なぜ嫌だったのか、どうすべきと思うのか、きちんと解剖して構造を明らかにしたいとも考えている。好きと嫌い、どちらからも逃げたくない。
 もし表立って行うには憚られるような出来になれば、無理に発表はしないだろう。
 しないだろうが、表裏どちらの側で行うにしろ、負の感情を切り分ける・尊重する行為そのものに後ろめたさを感じるような窮屈さは真っ平御免だ。

 誰にもそんなこと言われてない? そうかもしれない。
 私も誰にそんな「正の感情偏重」基準を吹き込まれたんだか、ハッキリとは覚えていない。
 しかし、ひとり思考を巡らすときに、ふと引き留める力が内心で働くことがある。その引力がひどく鬱陶しくて、窮屈で、厄介で、不自由だ。
 ここまでダラダラと「世の中がさあ」と書いてみたが、結局この話の本質は自問自答、自分との戦いでしかないのかもしれない。

 

 自問自答、上等である。
 負の感情に関しても内心の自由を保障する。これも上等である。
 嫌いなものを嫌いと思う。自己の表現、根拠である。
 嫌うことで自他の線引きが成るのであれば、それは自我そのものである。
 邪魔に感じるのであれば、壁である。ならば好きに破ればよい。
 どれもこれも妨げるものなどない。後ろめたさなど勝手に感じているだけである。
 好きなように取り払えばよい。

 

 自己を肯定するのが下手で、こうしてわざわざ文字にしないと自分の背中を押してやることができず、結果として2000字もかかってしまった。
 何か特別に嫌なことがあった訳ではないけれど、あまりに疲れてしまうと思考に自信が持てなくなってしまう。
 ブログには出来れば暗い話題を載せないようにしようと密かに決めていた。だから「これが嫌い」と語る記事は書かないでいた。
 しかしこれに関してはハッキリと文章として残しておく必要があったように思う。好き嫌いは両輪だ。自我があやふやになったとき、好きなものに縋るだけでは戻って来られない。傷口に入り込んだ泥を洗い流すように、嫌いなものをストンと切り落とす作業、あるいは切り落とす道具をこうやって探してくる過程が必要になる。

 ……だからといって、辛口レビューや個人の愚痴がベタベタ張られるタイプのブログにはしないつもりだ。
 それは「私が楽しいと感じる作業」ではないから。

 

 

 理性に偏った生活が続くと、ときにプライマルな感情まで否定しがちになって、ついには自我を見失う。
 そういう状態になりかけて、あわてて引き戻そうとしたら上記のように管を巻く羽目になりましたとさ。という回でした。
 ちょっと頭を休ませる必要がありそう。
 GWの過ごし方は考えたほうが良いな……。

 来週は何を書いたものか。
 では、また次の日曜に。